今日1日のNHK『クローズアップ現代』はばかげていた。テーマは、「コピペ ― ネットの知とどう向き合うか」。「コピペ」が学生レポートを軽薄なものにしているというものだった。自分で考えて書かずに、ネット上の文章を切り貼りしたものをレポート提出されて困っている(教員が)、というものだ。

バカなことを言ってはいけません。学生がレポートをまともに書かないのは、教員自身がそのレポートをまともに読まないからです。そして先生が困っているのは、いい加減に読んでいる限りはコピペかどうかを判断できないから「困る」と言っているだけです。だから原因は学生の方にあるのでもネット社会の方にあるのでもなく、先生自身がまともに学生を評価しようとしていないことにある。

そもそもレポート提出というのは、教員にとってもっとも簡単な評価法。先生は何もしなくてもいいのですから。ところが、この手抜きの評価法もネット社会によって、少しは真剣に読まざるを得なくなった。場合によっては先生自身がだまされることが起こってきた。要するにレポートを真剣に読まないと本物か本物でないかを見分けることができなくなってきた。それで「困る」と言い始めた。それだけのこと。要するに教員は何もやりたくないのです。何も考えていないのは、学生ではなくて教員の方です。

このレポートで「困る」と言って登場したのは、小樽商科大学 江頭進教授。専攻は経済学史。この教授は困ったあげく、レポート提出を止め、「学生同士の討論による授業」をやり始めた。これも手抜き授業の典型。先生は教室の後ろで座って授業の様子を見ているだけ(ときどき思いつきのコメントを投げつけるだけ)。まともな講義ノートを書く必要が全くないのがこの種の授業モデル。

講義で学生に授業を聴いてもらえない、レポート(宿題)で学生をいじめられない先生や学校が最後にやり始めるのが学生参加型の授業。先生が何もしなくても学生同士で盛り上がっている。少なくとも従来型の授業に比べて学生は寝はしない。先生も手を抜ける、学生は楽しんでいる、いいではないか、というのが、ここ数年の大学の教育改革モデルの主流。私がここ数年審査を続けた「特色GP」(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/gp/003.htm)の申請のほとんどはこの種の取り組みで占められている。

そう思いながら、テレビを見ていると今度はあの金沢工業大学の杉光一成教授が出てきた。この教授は、学生のレポートの引用情況を自動的に判別してくれるソフトを開発中という。そのプログラムに学生のレポートテキストを落とすと引用箇所が自動的にマーキングされて「引用率69%」などと出てくる。

この教授がやっていることは、小樽商科大学の江頭が「困る」と言ったことをさらに発展させているに過ぎない。要するに、いかにレポートを真剣に読まないで済ませるかを追求しているに過ぎない。〈教育〉をどんどん放棄することを国の予算を使って“研究”している。バカじゃないの(失礼!)。

(教育者としての)教員の仕事を評価する最も簡単な方法は、その教員がどんな方法を使って学生評価をしているのかということ。つまり学生のOUTPUT=OUTCOMEを測るノウハウをもっているかどうかが決め手。

教員とは〈教える人〉ではなくて、〈問う人〉(問いの専門家)だということをわかっていない。どんなにトークがうまくても、どんなに板書がうまくても、どんなに教材作りがうまくても、どんなに授業が盛り上がっていても、最終的にどんな仕上がりに学生をもっていくのか、またその最終的な仕上がりをどんな方法で確かめるのか、そこが曖昧であれば、全ての教育法改善は宙に浮いてしまう。

小樽商科大学や金沢工大のような偏差値の低い大学の教員がやるべきことは、「コピペ」を嘆くことではなくて、レポート提出(やポートフォリオ教育)しか学生をいじめる術を知らない学生評価法を転換することなのである。

そこがわかっていない。

もう一つ。この番組のコメンテーターはあのクオリア理論紹介者の茂木健一郎。彼もまた「苦労しないで得た知識は身につかない」などと“普通のこと”しか言っていなかった。その上、野口悠紀雄の「コピペも悪くはない。要は使い方」。最後には斉藤孝が出てきて「三色ボールペンを使って紙片に書き込まないと頭には入らない」とそれぞれ勝手なことを言って番組は終わっていた。

何だ、この番組は? と怒っていたのは私だけではあるまい。

IT技術の成果である「コピペ」は単に人間の能力の一部が反映したものに過ぎない。そもそもすべてのIT技術は人間の経験(人間的な経験)のノウハウが反映したものに過ぎない。ワードもエクセルも数々の(超優良な)人間のノウハウを一般化したものに過ぎない。なぜそんなものをわざわざ三色ボールペンを使って陳腐化しなければならないのか。

そもそも研究者の論文とはコピペ(=引用)でしかないではないか。むしろ参考文献の多さがその論文の価値を決める、と思い込んでいる論文審査が多いのだから、そんな先生達に「自分の頭を使わないでコピペするのは困る」なんて言われる筋合いはない。

私の研究者時代なんて、ちょっと気の利いた文章を自力で書くと、「芦田君、このことって文献、何から引いてるの?」と何度も聞かれたくらい。また私が参照文献の一切ない論文を(わざと)仕上げたときにも教授達の紀要審査会で問題になったくらい(最後には通ったが)。大学院では良いアイデアは大概の場合、「コピペ」だと思われている(苦笑)。そもそも修士課程も博士課程も言ってみれば「コピペ」の技法を見倣うところなのだから。

研究者は実際読んでから引用しているのだから、学生の「コピペ」とは根本的に異なる、などという声が教授達から聞こえてきそうだが、引用論文数の数だけを上げるための形式的な引用は昔から(ネット技術以前から)捨てるほどある。それは学会の日常的なあり方だ。学生の「コピペ」を批判する教授達の傾向はむしろ近親憎悪とも言える。

大学が膨大な助成金を国家からもらってやっていることは、自由な「コピペ」文化を大衆的な規模で実現するためのもの。

学者の仕事の中核は「翻訳」。よく、翻訳ばかりやって、ろくに自分の思想も持たないくだらない翻訳学者、というレッテルを貼る輩もいるが、それは大きな間違い。翻訳を何一つやらずに未邦訳の文献を使って自分の意見しか書かない研究者の方がどれだけたちが悪いか。

まずは世界的な水準の研究を自国文化に馴染ませることが研究者の仕事。研究者がたくさんの文献をこなすのは正確な翻訳をするためのこと。その翻訳が多数の自国読者(特に新しい世代の新しい読者)を生み、たくさんの読解=解釈を生み、そのことによって底辺文化が広がり、その結果、研究水準全体が上がっていく。それが大学教授を国民が税金で養っている理由。

教授=研究者達はなぜ「コピペ」文化を嫌うのか。その理由ははっきりしている。ネット文化の方が自らの旧式の文献研究をはるかに飛び越える可能性があるからだ。場合によっては、学生達の方がはるかに有益な文献を探し出してくる可能性がある。

だからこそ、先生達は「コピペ」を「困る」と言うのである。それは学生が「頭を使わない」こととは何の関係もない。NHKさん、取材が足らないよ。

(Version 2.2)
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