4月10日~11日まで、恒例の新入生フレッシュマンキャンプを代々木オリンピックセンターで行ってきた。昨年も即興の飛び入り特別講義をやったが(http://www.ashida.info/blog/2006/04/post_142.html)、今年は最初から、30分くらいは話させてよ、と科長さんたちに頼んで特別講義。

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久しぶりの講義。久し振りとは言え、講義は私にとっては、空気のようなもの。式辞と違ってくつろぎながら話しています(4月10日19:00~19:30 建築科研修室にて)。

下記のものは、建築科、建築工学科、インテリア科の諸君に、「デザインとは何か」というテーマで話したことをまとめたものです(話したことを思い出しながらまとめてみました)。頼んだもののほとんど現場で思いついたことを話したので、支離滅裂でしたが、結構みんな真剣に聞いていてくれました。


●デザインとは何か

デザインは、形や空間を形成するものだと思われていますが、それは間違いです。

形を認識するのは、知覚の一つ、視覚ですが、しかし私たちは〈形〉を見ているのではない。

それが証拠に、何かの事故や病気で、顔を半分失った人を突然見ると、われわれは、一瞬ぞっとする時があります。

もし人間の目が、形を見ているものだとすれば、この現象を説明することができません。形が同じものなんて世の中には何一つないのですから、目の前に映るものは、平等に見えるはずです。半分であろうが、3分の1であろうが、あるいは正三角形の顔であろうが、それはそういう形でしかありません。なにもぞっとすることはない。

とすれば、何がぞっとさせるのか。それはわれわれが、〈顔〉を見ているのであって、物理的な形を見ているのではないということです。言い換えれば、顔という〈意味〉を見ているのであって、物理的な形状を見ているわけではない。形を見る前に顔を見ようとするからこそ、“見たこともない顔”を見ると一瞬ぞっとする。意味形成が阻害されるわけです。

われわれは、空間や形に馴染んでいるのではなくて、それ以前に(ア・プリオリに)、〈意味〉に馴染んでいる。もっと言えば、〈意味〉の中に住んでいるのです。〈意味〉があるからこそ、〈形〉を“認識している”のです。つまり〈形〉を見ているのではなくて〈意味〉を見ているのです。

半分の顔、半分の手、半分の家、あるいは〈意味〉を形成しない形象、こういったものは、20世紀1920年代からのシュールレアリスム運動の主要なテーマでした。

別の顔を対置したり、別の手を対置したり、別の家を対置するのではなくて、顔、手、家そのものを解体する。それこそが、真に新しい芸術だ、という立場がシュールレアリスム運動です。

シュールレアリスムは、意味のア・プリオリを最初に指摘した貴重な運動です。〈意味〉の内部での再編はつまらない、そんなところに真の創作、新しいデザインは生まれないとしたわけです。

しかし、この運動の問題は明らかです。

半分の顔も半分の手も半分の家も、単に壊れた顔、壊れた手、壊れた家にすぎない。こういった形象は、意味の〈外〉(あるいは意味そのもの)へとわれわれを連れ出すのではなく、たえず、あれこれの意味を強化する。

シュールレアリスムの形象の不快感は、たえず、片付けられ、修理されるものとしてしか存在しない。

したがって、この不快感は、単に意味の不十全さとして不快なのであって、意味そのものの不快さではない。

意味そのものが不快であることについて、サルトルの『嘔吐(吐き気)』の主人公ロカンタンは、「マロニエの根」に吐き気を感じる。

「マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に深く突き刺さっていた。それが根であるということが私にはもう思い出せなかった。言葉は消え失せ、言葉と共に事物の意味もその使用法も、また事物の上に人間が記した弱い符号もみな消え去った。(…)それが一瞬、私の息の根を止めた。この、3日、4日以前には〈存在する(existence)〉ということが、何を意味するのかを絶対に予感してはいなかった。私は他の人々と同じだった。晴れ着を着て海辺を散歩していた人々と同じだった。私も彼らのように、「海はみどりで〈ある〉、あの空の白い点は鴎で〈ある〉」と言っていた。しかし、それが存在していること、鴎が存在する鴎であることに気づかなかった。普段、存在は隠れている…」(『嘔吐』1938年)。

シュールレアリスム全盛の1938年のこの段階で、サルトルは明らかに「存在する鴎」と鴎で「ある」鴎とを分ける。そして、「存在する鴎」に嘔吐を感じる。まさに意味そのものに彼は不快感を感じているわけです。シュールレアリスムを一歩抜け出ていたのです。1927年『存在と時間』のハイデガーに影響を受けた分、シュールレアリスムの災いから逃れることができた。

この不快感は、血だらけの鴎や顔のない鴎、つまり“あれこれの”鴎に対する不快感ではない。鴎そのものが「存在すること(existence)」に対する不快です。

意味があらゆる(あれこれの)形象に先んじるように、「存在する鴎」は、“あれは鴎「である」”に先行している。サルトル(ロカンタンの)嘔吐は、この存在の意味の先行性に対して生じている。

なぜ、顔が顔として存在するのか、そこから顔がそれとして見えているもの(顔のexistence)とは何なのか、そこに思いを致さないような思考について、サルトルは立ち止まったということです。

〈意味〉はフランス語で、sens(サンス)。「方向・傾き」を意味する言葉です。われわれは、目の前に存在するあらゆるものは、意味を持っている、という場合、それは傾きを持っているということと同じことを意味しています。その場合、「傾き」とは「用向き」(ドイツ語で言えばBedeutung)のことです。目の前に「形」としてあるものは、何かの用向きをもっているからこそ、認知されているということ。

しかし、ミロのビーナスやセザンヌの裸像を見て欲情を催せば、それは猥褻物ですが、そうはならない。〈美〉は、sens(サンス)=傾きを持たない。用向きを持たない。傾きや用向きを持たないにしても、それは故障物ではないし、修繕の対象でもない。

sens(サンス)を持たないにも関わらず、明らかにそれは単なる無ではない。それをサルトルは、存在する(existence)、と呼んだのです。「傾き」の中に安住しているわれわれをふと襲う、ミロのビーナスやセザンヌの裸像。それはexistenceそのものをあらわにしている。あらゆるsens(サンス)にあらがいながら屹立している。

あれこれのどの女性が美しいのか、どの女性が女性らしいのか、そういったsens(サンス)の内部を超えて女性そのものが存在する(existence)。それが美としての女性です。

結局、〈形〉というものは〈意味〉であり、意味がある(existence)とは、無形がある(existence)ということです。この無形としての意味が、あれこれの形をわれわれに見せているのです。

もし、みなさんが、新しいデザイン、新しい建築を目指そうと思うなら、新しい形にこだわってはいけない。形を作ろうと思ってはいけない。

あなた方の視線は、あれこれの形を形成している意味に向けられねばならない。形の存在(existence)に目を向けなくてはならない。

デザイナーとは新しい形を作り出す者のことを言うのではなく、新しい意味を作り出す者のことを言います。

新しい意味とは、あれこれの意味の中の新しさを言うのではなく、意味の存在(existence)、意味があるということそのものの新しさです。美的な裸像が形が変わらずにいつも新しいといういみで、その裸像は存在(existence)そのものが意味なのです。

デザイナーは、吐き気に出会うような存在(existence)に直面しなければならない。〈意味〉から形を作り出さなくてはならない。

〈形〉を見てはならない。〈形〉を変えること、〈形〉を作ることが、デザインの仕事ではない。このことを銘記して、これからの勉強を進めてもらいたいと思います。

(2007年4月10日 於・代々木オリンピックセンター)


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