●「小保方問題」について

1)「小保方問題」ですが、これについては、まずは「ありえないこと」の発見を彼女は「ある」と下手な仕方であっても叫んだのだから(つまり、コピー疑惑以前に、明らかにみんなの疑惑を生む主張をしたのだから)、ちまたの科学者たちが、「ミューズ細胞」「OCT4」発光の勘違い説などでいまさら騒ぐのはおかしいということ。それほど(勘違いさえわからないほど)に理研や小保方さんや共同執筆者たちの質が低いというのなら、話は別だが。これらの事態は、いずれにしても論文発表以前の話だ、と私は理解している。

2)もっともおかしいのが、「理研の(再)調査」。いま小保方さんの発見に寄せられている根本の疑惑(STAP細胞の生成の有無)について、まず「そんなこと本当にあるの?」と真っ先に疑惑を持ったのは、理研の当該内外関係者(小保方さんのグループ研究者も含めた)に決まっている。そもそもそれが研究者「である」ことの意味だから。

3)そもそも、STAP細胞現象については、バカンティを含めてかなり前から(2008年前後?)議論があり、初めての「勘違い」ではないはず。ここまでの月日自体が、いまさらのようなちまたの研究者の「勘違い」疑惑に耐えてきた研究であったに違いない。

4)普通に考えて、理研の当該関係者たちが、この世紀の大発見(とそれにつきまとうエセ現象検討)にかかわっていないはずがない。

5)分担執筆だから小保方自身の研究内実を知らない、というのもありえない。そもそもが、「STAP細胞あり」という主テーマなしにありえない論文デザインなのだから、まともな研究者(勘違い現象の歴史も知っているまともな研究者)なら、「STAP細胞あり」の真偽も確かめずに、「分担執筆者」や「アドバイザー」になるはずがない。笹井さんが最後の論文体裁の指導にのみ関わったなどということがあるはずがない(まして小保方さんに「騙された」なんて)。自分の狭い専門分野を超えた指導ならそういうことはあるかもしれないが、これは分野を超える(分野を横断する)再生細胞の大発見(あり得るはずがない大発見)なのだから。

6)小保方会見で、小保方さんが返答に一番詰まったのは、「STAP細胞あり」の証拠は?という質問ではなくて、①理研に「裏切られたという気持ちはないのか」 ②先輩から「掲載の方法」について指導を受けているのかという問いだった。前者は約15秒以上も沈黙が続き、そのような気持ちは持つ「べきではない」と思うと答え、後者については「少なくともですが…」と言って沈黙した。「少なくともですが(私自身は)」指導を受けていたのだろう。これ以上話すと理研から陰に陽にの支援を受けたこれまでの研究にさらに傷が付くと思ったのだと思う。まともな沈黙だった。少なくとも理研の当事者たちも「ある」と認めたのに、いまさら「調査」はないだろうということだ。

7)いずれにしても、この論文は、月並みな発見の月並みな業績稼ぎの論文ではない。「月並み」ではないというのは、最初からエセ現象にまみれた、疑惑を呼ぶ“発見”であるということだ。それは、数年間にわたる、彼女たちのSTAP細胞研究過程そのものであって、後(論文発表後)になって初めて指摘されるような疑惑ではあり得ない。〈論文〉を書いたことのある者ならば、それくらいのことはすぐにでもわかることだ。

8)個人的な(科学者としての)論文マナーとして、小保方さんの「コピペ問題」を批判するのなら、論文全体の主テーマの妥当性や内容の真偽を確かめずに(論文の体裁以前に)、「分担執筆者」や「アドバイザー」に名を連ねることも同じように、「科学者」としての「倫理」や「マナー」に欠ける。後から、取り下げ要求を行うというのも、最初の“マナー”違反の所在を曖昧にする所作にすぎない。

9)「真偽を確かめずに」と書いたが、結局、この「小保方問題」はそこがまったくわからない。いったい、理研内部で、あるいは著者グループでなにがあったのか。その問いを、小保方「コピペ問題」騒ぎは覆い隠している。


●コピペ問題について(典拠文献に触れない問題について)

1)これについては以前に論じている→http://www.ashida.info/blog/2008/09/_nhk.html

2)コピペ問題が生じるのは、レポートにしても論文にしても、教員たちの間でまともにそれらを読まない現状があるからだ。一所懸命書いてもまともに読まれないくらいなら、(学生側からすれば)手抜きレポートがあってもいいということになる。これは倫理の問題ではなくて、教員が教員として「仕事をしていない」ことの問題にすぎない。※ただし、この問題は難しい。テキストの専門家である教授たちは、そうであるがゆえに逆に、自分が論文に使えないテキストに関心が全くないのだ。彼らは博士論文(査読)さえも、あと何頁とときおり数えながら、退屈極まりない仕草で読み続けている。一言で言えば、〈教育〉に関心がないのだが。

3)盗用を発見する、というアプリケーションが存在するが、これは、ますます教員たちがまともに論文評価に向かわない“装置”にすぎない。手抜きレポート・論文は、手抜き教員の結果にすぎない。このアプリケーションが各大学に普及するなら、教員たちはもっと何もしなくなる。

4)そもそも、学生や(指導を受ける)研究者が、手抜きコピペ論文を書くというのは、指導者の指導をなめている結果にすぎないか、指導がほとんどないことの結果にすぎない。それ自身教員に対しての(受講者側からの)教育評価にすぎない。日々(せめて週に一回の)論文作成の進捗や質にこだわる指導の中では、コピペなど起こるはずがない。

5)テキストコピーなどは、コピーの中では一番程度の低いコピーと言える(コンピュータでも発見できるのだから)。考え方(アイデア)のコピーはテキストなしに行われているから、本来のコピー盗用問題は、こちらにある。これさえ見抜けない教員がいるのだから、初級のテキストコピペ問題は擬似問題なのだ。特に、孫引きなどの場合は、テキストコピーで騒いでいる教員たちは、ほとんど見抜けない。

6)Aという著者の著作に、A1,A2,A3…と他の三著者のテキスト引用があって、(たとえば)A1のテキストを引用する場合(元のテキストを当たって、自ら検証する、訳し直すということも含めて)、これを「孫引き」と言う。この「コピペ」は、iThenticateのようなコピー発見器では“発見”できない。この場合、A著者の著作名を引きながら、A1を紹介するかどうか、つまり、「知ったのはA著者の著作においてだが」と断り書きをいれつつA1引用を行うかどうかに、特に明確な基準はない。二次引用者は、最初からそのA1テキストを知っていたかのように振る舞い、「その点についてAはこう言っている…」などと逆参照することなどもあり得る(「コピペ」中級)。そうやってA1,A2,A3…と「孫引き」「逆参照」を繰り返すと、一冊の文献を利用しただけで、何冊もの「参照文献数」を稼げることになる。最初のA文献(この場合には「一番重要な文献」)に触れないようにすれば、A1,A2,A3…参照は実体参照であるかのように見せかけることができる。触れたとしても、こっそり別の文脈で参照する場合もある。第一章でA1,A2,A3…を実体参照し、A参照は第四章で触れるというように。

7)全くのうろ覚えなのだが、かつて江藤淳は、批評とは誰も引用していないテキストを発見することだと言っていたことがある。鮮烈な言葉だった。その通りなのだが、それは、逆にほとんどの批評がそうなっていないことの裏返しの認識だったのである。この認識に拠れば、オリジナリティとは、無知の別名に他ならない。批評であっても研究であっても、新しいテキストの発見が伴わない解釈の斬新さなど存在しない。

8)自然科学のような実験データが存在しない人文系においては、自分の主張を裏付ける、あるいは自分の主張を啓発する「テキスト」の発見がすべてなのだが、そのもっとも重要な発見を、自力で発見できないことはよくあることだ。人文系にとって「主要な文献」とは、そういったA1,A2,A3…のテキストを蔵している文献だと言ってもよい。もっと言えば、そういった「孫引き」を誘発する文献こそが、「典拠文献」そのものである。しかし、A1,A2,A3…を引用する度に、「Aにお世話になりました」と言い続けると、「あなた結局一冊しか読んでないのね」と言われることになる。さてどうするのか。これは、「無断引用」ルールの外で起こっていることなのだ。

9)テキストの「コピー」でさえそうなのだから、アイデア(オリジナリティ)の「コピー」ということになるともっと複雑な問題を含むことになる。普通、アイデア(オリジナリティ)の「コピー」というのは、〈影響〉という言葉の中に埋もれてしまっているからだ。

10)しかし、本来のコピペ問題指導は、「そんな考え方はこちらにある、あちらにある」と、若い研究者たちに、研究史(世界史のデジャビュ)を辿らせることの中にしかない。「自分の意見を言うのは100年早い」というものである。何度書いても、「その解釈はすでにある」と指摘するのが、論文指導というものだ(※)。参照文献が「100冊あっても、読んでいるのは20冊」と指摘するのが論文指導。それは一冊の『存在と時間』論であっても、「あなた、『存在と時間』全部読んでないでしょ」と指摘するのと同じプロセスでのことである。そのプロセスの中にしか、テキストの諸々の箇所やその著者名を持ち出す意味はない。
※たとえば小保方論文で言えば、図像データの切り貼り偽造指摘にとどまらない、OCT4発光現象(たんなるマーカー現象)をSTAP細胞現象と取り違えたのではないか、という指導も含めて。もちろん私は、その程度の勘違いは、笹井「アドバイザー」や他の共同著者たちにとっては、自明の指導だったと思うが。

11)だからこそ、初見で論文審査する場合以外は、レポート、論文上の“犯罪(無断引用)”は、教員による教育の結果にすぎない。初見でさえ(諸々の市販の著作でさえ)、それを読む者は、影の著者(や研究史)を透かしてみるものだ。むしろ〈読む〉こととは、意識的、無意識的に書き手の影に隠れているテキストや著者を読み解くことでしかない。そういう読み手に出会わない限り(大学とか大学院というのはそういう読み手に出会う場所ではなかったのか)、若い研究者たちは、いつまでも安易な(マナーにまで矮小化された)「コピペ問題」に踊らされることになる。→「にほんブログ村」

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