読者の方で、携帯電話を子供に持たせようとしている、という方がおられて意見を求められました。2001年に私が発表した記事を再録します。古い読者には周知の記事ですが、年数がたっているので、新しい読者には少しは役に立つかもしれません。以下4つの記事から出来ています。また今回、新しい読者を得て、「コメント」欄がにぎわい、議論が深まっています。ぜひご参照下さい。
●子どもに携帯電話を持たせてはいけない
私の息子の話をして恐縮だが、今度高校に入学する息子のクラス(中学三年の卒業数日前のクラス)では、高校入試が終わったとたんに、入学祝いで携帯電話を買ってもらった生徒が多く、クラスの7割の学生が携帯派に一挙に変身したらしい。区立の中学でさえこうだから、私立であれば、9割くらいは(まったく根拠のない数字だが)携帯派だろう。
なぜ、世の親たちは、こんな馬鹿な入学祝いをするのだろう。
携帯の最大の問題点は、自分の時間、一人になる時間を与えないということだ。これは〈考える時間〉を与えないということとほとんど同じことを意味する。
特にこれから高校生になってやっと自分で考えはじめる年齢の子ども達に、帰り道でも、自宅の自室でも携帯“コミュニケーション”が横行することになると、もはや“自己”は、忙しい会話(ドイツの哲学者ハイデガーは、この会話をGeredeと呼んだ)のなかに解体するしかない。
大人の仕事の仕方でも、忙しく働いている人に仕事ができるはずがないように、忙しい子どもにもろくな子どもはいない。人間は“ため”がなくなると生活(=自然)の中に解体するだけなのである。
仕事が「忙しい」と言う人は、仕事が“生活”になっているだけなのだ。本来、仕事は危うい〈選択〉の連続なのに、不可避なものの連続である〈生活〉が前面化する。これは、大人にとっても大人になる子どもにとっても決していいことではない。
同じように携帯は、“コミュニケーション”を〈生活〉化してしまったのだ。こんな貧相な“コミュニケーション”がかつてあっただろうか。
我が家では、息子(長男)には30才になるまで携帯電話を与えないという「家訓がある」ということにしている。実は、もう一つ「家訓」があって、サンタクロースは本当にいるということを20才まで信じ込ませるというものだったが(別にクリスチャンでも何でもないが)、これはもろくも小学校6年頃から守るのが苦しい「家訓」になってきた。「親がサンタだよ」という友達のアドバイスを反駁するのは簡単だったが(「一年間よい子にしていなかった子どもは、親という偽のサンタにしかプレゼントをもらえない」ということにしていた)、クラスでサンタの存在について多数決をとったとき、サンタを信じていたのがクラスで一番勉強ができない子と息子のふたりだけになったとき(この2人は確信をもって挙手したらしい)、さすがに疑いはじめたらしい。
だから携帯電話の30才も果たして守れるかどうか、あやしい家訓だが、持とうとしたときには息子に「勘当」を言い渡そうと思っている。
私自身は、SONYの新しいFOMAを出たてで買って喜んでいるが、それは携帯電話というモノが好きなだけで、それで“生活”したりはしていない。中年男で携帯で“生活”している人というのは、不倫している男性ぐらいのものだ(記:2001年03月14日)。
●続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない
親が子どもに携帯電話を持たせる直接的な理由がある。「塾通いなどで遅くなったときなどにも連絡が取りやすいから安心だ」というものだ。
「あなた、今どこにいるの?」というものだ。小学生から携帯電話を持たせる、超バカな親がいるが(もっとも私も含めて親というものはみんなバカだが)、なぜそうなるかというのは、この親から連絡が取りやすいというものである。
またもうひとつ、子どもになにか事故があったとき連絡が取りやすい(安全だ)というものだ。しかし、携帯電話の〈存在〉は、親から子どもへのためにだけあるのでもなければ、事故のためにだけ存在しているものでもない。
一度持たせると求心的、遠心的に自立的な“連絡網”ができあがっていく。忙しい会話(Gerede)のはじまりだ。世のお父さん、お母さん、子どもの(民主的な)要求に応じてはいけません。
もし、友達はみんな持っているし、お父さんだってもっているじゃないか」と子どもに言われたら、「そんなにだれでも持っているのなら借りればいいじゃないか」と言っておきましょう。
電話での連絡というのは、メール連絡と同じように、“連絡”の中で一番意味のない連絡です。死んだおじいちゃんの口癖は、「本当に必要ならここまで言いに来るよ」というものでした。それでいいのです。
「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画(http://www.asmik-ace.com/LifeIsBeautiful/)で、主人公は自分の子どもにウソを言い続けました。迫り来るナチの暴虐に対してです。そして最後には子どもを救済することに成功します。
この映画は反戦映画というよりは、ウソであれ、本当であれ、〈確信〉こそ「希望の原理」だというものです。ブレるということこそが、リーダーの条件にもっとも遠いものだというものです。会社の課長や部長でも、正しいことを言おうと意識する上司に限って、昨日と言うことが違ったりします。これではリーダーになれません。
リーダーの条件は、真理を参照することではなくて、確信を保持すること(ブレないこと)なのです。だからこそ、リーダーはいつでも孤独です。「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公はだからいつもおどけていました。それは彼が(子どもにウソを言い通そうと)確信する人として孤独だったからです。であるからこそ、彼は子どもに未来を開いたのです。
したがって、この主人公は死体をさらすことなく、死にました(死んだことになっています)。死においてすら彼は孤独だったわけです。リーダーは死ねない(死体すらさらせない)ほどに確信を保持しなくてはならないのです。
子どもに携帯電話を持たせてしまったお父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をぜひ見てください。民主的なお父さんというものが、いかにダメなのか、何が子どもにとっての「希望の存在」なのかがわかるかと思います。勇気を出して、子どもから携帯電話を取り上げましょう(記:2001年3月15日)。
● 続々・子供に携帯電話を持たせてはいけない。
〈考える〉ことができるのは、根本的には一人でいるときしかないのです。
かつて都会の夜には駅のプラットホームの思考時間というのがありました。
残業で一人になり、深夜のプラットホームで、待ち時間の長い電車を待つとき、人はその日一日あったことや、場合によっては人生のことまでも〈考える〉ことができたわけです(考えすぎて自殺する人がいるのもプラットホームです)。
今は一人でも携帯電話で話し続けています。深夜でも一人であっても、忙しい「会話」でにぎわっているのが携帯電話の蔓延するプラットホームです。サラリーマンの唯一の思考の時間であるプラットホームさえもが、携帯電話によって消失してしまったわけです。
子ども達にとってのプラットホームとは、放課後の帰り道であったり、自宅での初めての自室(独立した部屋)です。そしてこういった空間が、携帯電話によって串刺しのように切り刻まれているのです。
もともとこういった空間は、〈話す〉空間ではなく、押し黙る、あるいは〈書く〉空間だったわけです。そして話すというのは、時間に追われて話すということです。話す=時間なのです。
〈話す〉というのは根本的に忙しいことなわけです。
一方で書くことは、空間的であって、それは時間を累積させます。ためることが書くという行為です。理論とは書くことの成果です。
だから、書くことに近い話体である“東京弁”は、賢そうに見えますが、話体の極点である“関西弁”の大学教授の講義はとても理論的には見えません。“関西弁”をしゃべる人間は考えることから最も遠いところにいるわけです(私も京都出身ですが)。iモードメールも、書いているかのように見えますが、ほとんどのメールの文体は限りなく話体です。いわゆる“ため”のない書記行為なのです。
時間に追われた書記行為。それがメールを書くという行為なのです。
したがって、メールでいくら書いても、考えたことにならないのです。それは関西弁で書く、という矛盾です。明石家さんまのしゃべりを文字にして読んでも笑えるわけがないのと同じくらいに、メールで書くことは話すことの威力にすぎません。
子ども達から一人になる時間や押し黙る時間を奪ってはいけません。話すことが中心になったり、話体でしか書けなくなるような状態に子ども達を追い込んだりしてはいけません。お父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をまだ見ていませんか?(記:2001年3月16日)
●新・子供に携帯電話を持たせてはいけない。
今日、久しぶりに電車に乗った。
「八幡山」駅で、斜め前の席に、中学生の男子(制服から見て明大附属中学)が3人のってきた。3人とも席に着くなり携帯電話を使い始めた。初心者のようだ。「“送信にしました”だって」なんて言って喜んでいる。
中学生から携帯電話。バカな親もいるものだ。なんで与えるのだろう。学生(or生徒)というのは、〈社会〉から隔離されていてこそ学生だ。〈連絡〉というものから隔離されていてこそ学生である。
〈教育〉というのは〈社会〉の影響を受けないからこそ、〈教育〉でありうるのであって、だからこそ、次世代を担いうる人材を育成することが出来る。「即戦力」という言葉があるが、市井の英会話スクールやパソコンスクールの教育目標ならいざしらず、その意味の実態は“使い捨て”ということに他ならない。
学校教育の目標は、大学を含めてさえ、〈基礎〉教育というものにかかわっている。〈基礎〉教育の〈基礎〉とは、わかりやすい、簡単なもの、つまり「初心者」のための教育というものではなくて、〈社会〉がどんなふうに変遷しても変わらない(=生き続けている、これからも生き続けていく)“資産”を伝えるためのものということである。
そのため学校教育は、どうしても保守的になる。時代遅れになる。それは学校教育の“欠陥”ではない。その保守性や時代遅れは、社会的な変化(消失するもの)を“フィルター”にかけるためのものなのである。もちろん、こういった保守性や時代遅れは、次世代や将来を見通してのものである。〈基礎〉は、〈社会〉に媚びないからこそ、いつでも新しいものの源泉になりうるのである。
だから、〈学校〉は〈校門〉をはじめとして、〈塀〉(=学校を取り囲むフェンス)で囲まれている。それは〈社会〉や〈変化〉から浸食を受けないためである。それは、〈監獄〉が〈社会〉から隔離されて〈塀〉で囲まれているのと同じことである。どちらも〈社会〉からの隔離という点では同じなのだ。たとえば同じ〈学校〉と言っても、〈社会〉に近い、〈変化〉に近い、実業教育、職業教育を標榜する専門学校には〈塀〉が存在していないのは、その理由からである。
したがって〈塀〉の中の学生が、携帯電話を持って、〈外部〉(〈社会〉)と“連絡”を取るというのは、不思議な事態なのだ。彼らは、もはやその時点、〈学生(or生徒)〉ではない。最初から社会化している学生に、どんな〈才能〉や〈能力〉を見出そうとするのだろうか。
たとえば、最近、私の息子の都立高校に“名門”私立高校から生徒が“転校”してきた。不況で親が学費を払えなくなったためだ。あるいは学業すら続けられない子供がこの時代のあちこちに出現しているのだろう。
本来、こんなことはあってはならない。こういった、教育からの脱落は、それ自体〈学校〉の〈塀〉の中に社会的な変化が浸食していることの結果なのである。こういった脱落組が負の浸食だとすれば、携帯電話は正の浸食である。携帯電話を持つ学生は〈塀〉の中にいながら(学校に在籍しながら)の退学者なのである。“社会”が豊かであることの意味は、学校を“社会”からどこまで孤立させられるかに関わっているのであって、その逆ではない。
これは単なる推測だが、携帯電話所有率、利用率の学生分布一覧でいえば、所有率・利用率が高い学校ほど、学生に勉強をさせていない学校であるに違いない。社会化した学校はもはや学校ではない。〈現在〉の中に自らを解体させてしまっているからである。
ところで、しかしこの状況は、学校がもはや〈社会〉の影響を受けないでいることは不可能な時代になりつつあるということではないだろうか。ちょうど、旧ソ連が〈社会〉の影響を受けて解体したように(ソ連の社会主義は、〈学校〉としての国家の歴史的実験だった。同じように学校的な中国も社会化しつつあるが、むろん〈学校〉は〈国家〉と同じではない)、〈学校〉も解体しつつあるのだ。
私はこの社会化を防ぐ唯一の砦が〈家族〉だと思うが ― 親や家族こそが〈社会〉からの初源の〈塀〉なのである ― 、その親が、ふたたび子供に携帯電話を持たせて、〈家庭〉を社会化させている。家庭は“連絡”の渦にまみれている。もともとは、機能(利益)や目的に支配されない〈長い時間〉の絆によって形成されている家族の共同性が〈短い時間〉の連絡にずたずたに引き裂かれて解体しつつある。
今こそ、親こそが“保守的”になって、子供から携帯電話くらいは取り上げようではないか。「みんなもっているから」なんて子供に言われたら、「みんなもっているから、持たないでいい」と言おうではないか(記:2001年11月4日)。
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