学歴社会は、人間の評価を変えた。
学歴社会とは、「国語・算数・理科・社会(+英語)」の能力で、社会の入り口(場合によっては社会の最後まで)の選別を行う社会のことを言う。
「国語・算数・理科・社会(+英語)」以外の能力とは何か。それは「体育・音楽・美術・技術家庭」の能力のことを言う。
前者と後者との違いは何か。前者はとりあえず〈努力〉で何とかなる科目。後者は〈努力〉を超えた能力が必要な科目(もちろんその区別は絶対的なものではないが)。
「100メートルを12秒以内で走れ」と言われても、〈練習〉では限界がある。音楽にしても絵にしても限界は見えている。一夜漬けの効かない科目、それが「体育・音楽・美術・技術家庭」。
結局のところ「体育・音楽・美術・技術家庭」の能力とは、天分のことだ。生まれ落ちた家庭(=親の能力)や地域の影響が大きい科目群なのである。
「国語・算数・理科・社会(+英語)」の能力を階層形成の原理にしましょうという学歴社会は、とりあえずは、反家庭主義、反地域主義の立場=空中主義の立場に立っている。
いわゆる〈身分社会〉の反対概念が〈学歴社会〉だ。私立の名門小学校が子供の能力よりも親の素性を追い求めるとき、彼らの〈名門〉とは文字通りイエの名門を本来的には判定していている。本来の「私立名門校」とは学歴社会の反対概念なのである。
学歴社会の評価判定は、○×試験を原理としている。それは今ではマークシートにまで進化した。それらは、出自(家庭)や階級を相対化することに意味がある。
一方、「名門私立」の評価判定は、記述回答、面接試験を持って原理としている。それは家庭環境・地域環境・階級をあらわにする。筆記文字、服装、しゃべり方を直接体験すれば、階級属性は比較的簡単に判断できる。
それに反してマークシート(○×試験)は人間の純粋努力だけをOUTPUTしている。その意味で、マークシート(○×試験)は近代的な人間性そのもの、近代的な自由(の成果)そのものを評価しようとしている。マークシートや○×試験が〈人間性〉を疎外している、というのは逆なのである。それを批判することが出来るのは、近代的な人間なんてどうでもいい、という立場だけなのだ。
学歴主義が評価の自由主義だとしたら、超高層建築は、建築の自由主義だ。
従来の建築は、地域と階級に縛られている建築だった。建築は〈生活〉を露呈させる。家を見れば、その家庭がどれほどの階級に属しているかはほとんどわかる。戸建て住宅で生活と階級を分離することなどほとんど不可能なのだ。
20坪の一軒家で、フェラーリを駐車場に置くことは(20坪の場合、悲しいかな駐車場は玄関よりも前方に位置してしまう)、ほとんど後ろ指を指される行為に近い。動産と不動産が不釣り合いなのである。戸建てではこういったアンバランスはよく起こる。高いブランドもので全身をまとっていても帰って行く自宅は20坪以下の家であるようにして。
こういった現象が「不釣り合い」と思われる原因は、住宅というものが「不動産である」ことによって、〈衣服〉のようには簡単に選択できない意匠になっているからだ。
近代化は、様々な仕方で様々なものを選択可能なものへと転換させてきたが、最後の砦が「不動産」=〈住宅〉だった。
〈住宅〉とはそもそもが〈生活(暮らし)〉である。一方、近代化の原理は反生活。生活感のないことが近代化。
トイレもきれいになった。洗濯物も室内で干すようにもなっている。食べ物も加工品が多くなり、ゴミまで分別するようになった。分別できないものを〈ゴミ〉と言うのだろうに。最近では犬のうんこを持ち歩いて散歩をするというわけのわからない人種が頻出するようになっている。うんこの臭いがしない食べ物も出てくるようになった。
〈生きる〉ということは、本来〈汚い〉ものなのに、それを隠すことが〈近代化〉。
住宅の発展も、〈生きる〉ことを隠すことがその原理。たとえば、洗濯物が見えない暮らしが高級住宅の証であるようにして。最近では小住宅でも室内に洗濯物を干すようになってきた。あるいは洗濯物は乾燥するまで洗濯機の中に閉じこめられるようになってきた。
しかし住宅全体の見栄(=外観)は依然として貧相か、貧相でないかの〈暮らし〉を表現している。
それを相対化しようとしたのが、60年代の団地、70年代以降のマンションだった。もし20坪の自宅であってもポルシェやフェラーリを後ろ指さされずに乗ろうとしたなら、マンション(=都市生活)を選ぶしかない。マンションは、個別の住宅=戸建て住宅よりは暮らし(=生きること)を隠しやすい。一つのマンションは一つの地域(一つの空間と時間)に相対的にではあれたくさんの階層を抱え込むことが出来るからである。
というより、近代化と高層住宅はその歴史の両輪である。高層住宅の存在が、都市集中の(近代的な都市の発生の)根拠である。都市集中は、空間的な移動の自由と階層間移動の根拠をなしていることからも、それは明らか。「東京は田舎ものの集まり」と言うが、誰も集まらない地域を田舎と言うのだから、それは東京の本質を言い当てている。田舎とは、暮らしと仕事が一体化している場所のことを言う。農業がその極点だ。その対極に東京がある。
そして田舎から若者が東京に集まったのは、かの学歴主義においてである。勉強が出来さえすれば、田畑さえも売って大学へ行かせたのが、60年代、70年代の日本だった。これが日本の高度成長を支えた。日本の産業組織は、一流企業においてさえも世界的にもまれなほどの各種階層が存在し、それが産業活動の活気と多様性を産む動力になった。
そうやって、団地が成立し、マンションブームが到来する。これは大地を離れた地方出身者の暮らし(=反暮らし)を形成した。
勉強=都市=高層化は近代化の三種の神器。これらは、時間と空間を相対化するという点で共通の根を持っている。それらは〈出生〉を相対化するわけだ。ヨーロッパに高層建築物が存在しないのは、ヨーロッパが未だに階級社会であることを意味しているにすぎない。
人間の不自由の源(みなもと)は、人間が〈親〉(=家族)を持つということ、特定の空間と時間の中に生まれ落ちること、つまり〈生活(生死〉〉を避け得ないことを意味している。その意味で、学歴と都市と高層住宅は、反家族、反時空、反生死(反精子?)だったわけである。
建築家とは、その意味で階級的な存在だ。金持ちに寄生して、高い(価格の高い)建物を建てたがる。厳密に言えば、高価格自体が目的ではない。建築家が金持ち(や官庁)に寄生するというのは質量(材料)の選択を自由化するため。すべての建築家は階級的な寄生虫だ。
ちょうど自動車評論家が階級的であるのと似ている。安い質量で組み立てられた自動車が良いクルマであるわけがない。「このクラスのクルマとしては良いクルマだ」という訳の分からない“批評”をするのが、自動車評論家。これが〈批評〉でないのは明らか。私が正直な自動車“評論家”であろうとしたなら、「若者よ、金を稼げ」としか言わないだろう。
そもそも文芸批評家は「この本は1000円台の本としてはまともな本だ」とは言わない。文学が質量から解放されている分、文芸領域では純粋批評が成り立つが、自動車ではそうはいかない。文芸批評の方が自動車批評よりもはるかに高級なのだ。建築家も自動車評論家も〈生活〉から創作や批評を切り離せないでいる。
建築家が階級的な仕事を脱するとしたら、超高層建築に携わるしかない。ここで言う「超高層」とは、農業、工業、商店、オフィス、公園、スポーツジム、医療機関、住宅などをすべて兼ね備えた建築物だ。それ自体が〈世界〉であるような建築物である。
私の言う「超高層」はライプニッツの「モナド」と(ほぼ)同じと考えていい。「モナドには窓がない」が世界全体を反映している。
したがって、それはある場所(空間と時間)を占めている建築物なのではない。場所を無化するように存在しているのが超高層だ。全体であることによって〈場所〉を占めず、全体であることによって〈外部〉を持たない。つまりそれは〈主体(Subject)〉の成立を言う。
近代的な自由を建築的に表現すれば、超高層でしかなくなる。それは〈生活〉によっては人々を差別しない唯一の空間的な表象だ。学歴社会は、超高層社会で最後の時を迎える。
さて、〈近代〉とは、たかだが〈学歴社会〉、たかだか〈超高層社会〉だ。
たとえば、イラク戦争は、物量と技術で圧倒している(=近代的な)アメリカの敗北に終わった。
なぜか? 物量で圧倒できるのは、近代の戦争を代表する空中戦でしかないからだ。それは地上を相対化しようとした近代そのものの戦いなのである。
しかし〈大地〉の地上戦は物量では勝てない。それは左翼的な〈人民〉が強いのではなく、〈大地〉の戦いは誰にも加勢しないからだ(〈人間〉や〈主体〉を超えているからだ)。もし空中戦で地上戦を含めて全面勝利しようとすると核戦争しかない。しかし核戦争は自滅の戦争でしかない。限定核戦争では地上戦を勝利できない。
さて、だとすると、〈ポストモダン〉とは何か。終わりを見せないモダンの終わりはどこにあるのか。
そんなことを考える今日この頃です。明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
※「紅白歌合戦全曲速報」(http://www.ashida.info/blog/2007/12/58nhk.html#more)で体力が消耗し、年賀状を書くのをすっかり忘れていました。今日になってやっと落ち着いたので、一気に書き上げました。今さら、賀状で出すのも気が引けます。これを持って年初の御挨拶に代えさせてください。
※今年の「紅白歌合戦全曲速報」(http://www.ashida.info/blog/2007/12/58nhk.html#more)はアクセス数が1日で1500を超えました(いつもは80から100)。また当日のサイトの訪問数も3600を超え、2000年10月にはじめた『芦田の毎日』の最高記録(いつもは300~800)。たくさんの方に支援されて喜んでいます。今年も宜しくお願いします。
(Version 2.0)
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